2014/2/12 意識トレーニング[謙虚] |
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さまざまな生命に対して謙虚であること |
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①不完全な人格と完全なる人格
私は仏法僧の一人としてお話をいたします。今日は皆さん方に新たなる世界に見も心も波動を高めていき、謙虚なる姿勢、謙虚なる心を天の世界に近付けていくのを行なっていこうと思います。皆さん方の日常生活において、自然や人間とのかかわりの中、自分という人格をどのように認識し、どのように相手に貢献しているか。それを考えてみましょう。
一人ひとり、私という人格があり、私はこういうものです、私はこういうことができる、私はこれが得意です、私はこういったことを仕事にしています。いろいろなところに現れてくる私という人格。この人格がある意味では自分であり、自分そのものであり、あたかもずっと存在し続ける自分であるように感じております。
皆さん方の人格という存在は、どのようにしてつくられ、これからどういう運命をたどるのか。それを考えてみると、とても面白いでしょう。自分の人格がどう変化していくか。皆さん方の人格は幻の人格なのです。本当の人格ではありません。
あたかも自分であるかのように思い込み、自分であるかのように信じ、自分として毎日、自分の意識を保っております。自分という人格は物心ついたときから心で育っていき、あたかも自分自身であるかのように自分の中心に存在しています。
この人格は欠点を持っております。この人格は不完全な人格であるために、間違いを起こし、理解できないことが多く、人と接するにも不十分な接し方しかできません。完全な人格というものがどこにあるのか。自分自身を不完全だと感じさせるこの人格。自分は不完全な存在なのだろうか。この人格ということが皆さん方の一人ひとりに大きな混乱をもたらしてくるのです。
自分の好きなことをしようとしても、世の中には通用しない。やりたいことをやろうとしても、ほかの人には認められない。自分の心で感じたことがほかの人には通用しない。自分の人格とほかの人の人格の考えていることが異なっている。そのために自分の人格を信用しても、ほかの人の人格のためにはならない。
ほかの人の人格のために役に立つこと、良きことをするためには何を基準にしたら良いのだろう。自分の人格を規準にしても、ほかの人には通用しない。自分の人格を完全なるものに近づけるということができたとき、完全なる人格はほかの人にとってもよいことなのだろうか。自分が自分の人格を完全にさせると、この完全なる人格はほかの人にとっても完全と映るのだろうか。
こういうことが認識されていきます。では自分にとっての完全な人格というものはどういうものなのだろう。自分にどのような欠点や短所があるのだろう。気が短い、怒りっぽい、中途半端で投げ出す、根気がない。うそをついてしまう。卑怯なことをしてしまう。いい加減なことをつい口に出してしまう。いろんな意味で不完全な人格があります。
しかし多くの人は不完全な人格を不完全とは思いたくないために、あたかも完全な人格であるかのように見せかけようとします。不完全であるにもかかわらず、完全な人格であるかのように自分をもっていく。そしてうそをついたり、相手をだましたり、できもしないことをできるといったりする。所詮、人格は不完全なものであるために、完全なるものを見せることはできません。
この不完全なる人格に自分で気づき、不完全なる人格をどのようにして完全なる人格へと引き上げていくか。自分の何が不完全なのか。自分を不完全とさせているものは何なのか。それを見ていき、自分自身の人格を完全なものへと導いていく。
自分にとっての完全なる人格。これが皆さん方にとっての自分の目標とする方向性になります。完全なる人格に向けて心を豊かにして、心を改め、良き心へと、高き心へともっていく。そして完全なる人格に近づけていき、自分自身を本当の完全な人格であるかのようにつくり上げていくのです。
自分の心が少しずつ高まっていき、完全なる人格を手にする。完全なる人格を手にしたとき、周りの人々は自分のことを良い人、素晴らしい人、人格者として見るようになります。一人ひとりが完全なる人格を身につけ、完全なる人格で他人と接することができるようになったとき、完全なる人格の持ち主も実際には自分の人格はまだまだ不完全であり、まだまだ改めることがあり、まだまだやるべきことが残っており、完全なる人格にはまだ修練が必要となる。こういう気持ちを感じていきます。
完全に近付けば近付くほど、不完全が見えてくる。そのために自分のやるべきことがより多く感じられてくるのです。自分のやるべきことが見えてきて、さらなる完全に向かおうとしている。そのときに自分は完全に近付きながらも、まだまだ不完全な身。完全性を求めていく。このような意識状態。まだまだ自分は不完全な人格であり、完全なる人格を身につけるにはまだまだ足りないものが体にある。
そのときに自分を完全に導くためのアドバイスやいろんな話がされたとき、それらをしっかりと受け入れ、自分のために、完全なる自分のために意見を聞き、アドバイスを聞き、自分に必要なことを行っていく。このときの姿勢が謙虚な姿勢になっております。
したがって謙虚さはある意味では不完全な人格から完全なる人格へ移行している最中に身につき、体感できるものであり、完全なる人格を目指していないものには謙虚さは現れておりません。謙虚であろうとする心は完全なる人格に向かおうとする心からつくられるものであり、そのためには自分の人格が不完全であること、完全なる心を求めていること。これが必要となるのです。
自分の人格が不完全であり、さらなる完全性に向かおうとする。この謙虚なる心は自分の心に対しての修養が要求されていき、ほかの不完全な人間を見ても、ほかを責めたり、ほかの人を利用したりすることはなく、自分は自分の人格を完全なるものへ高めていくために自分で修行を行なっていきます。
謙虚さはいつの時代でも必要なものであり、それによって完全なるものを身につけようとする人間が現れ、人間自身の成長が行なわれていきます。謙虚さが身についていない人間は傲慢で、大柄(おおへい)で不完全なる人格をあたかも完全な人格であるかのように他と接するときが不完全なる人格の現われになります。
謙虚さを身につけていくと、自分の不完全さを自分で理解し、それを完全なる人格へと高めていこうとする。こういう心が常に動き、他人の人格に関しては寛容であり、暖かく見つめ、他の人も完全なる人格を求めようとして、一人ひとりが修養していることを尊重することになります。
自分の心の中にある不完全なる人格、自分がなそうとしている完全なる人格、この両方が見えてきたとき、謙虚なる心が動き出し、不完全な人格から完全なる人格へ導こうとしていきます。謙虚なる心は謙虚を知っている人の前で有効であり、謙虚ということを知らない人の前では謙虚さは何も感じられません。
いくら自分が謙虚で慎ましい行動をとっていたとしても、周りに謙虚さに対して何も認識していない人がいれば謙虚さはまったく伝わることはありません。謙虚さを理解できる人がいたときにのみ謙虚は認識され、素晴らしい人格として認められていきます。自分が人格を高めていき、謙虚なる心をより強くしたとしても、周りの人が誰一人謙虚な心を持っていなければ、まったく何も感じられることはありません。
今の皆さん方は、これからこういう問題に立ち向かっていきます。謙虚さを身につけたり、真面目さや正直さを身につけ、自分の人格を高めていこうとして、それらに関してまったく何も認識しない人がきます。謙虚さや正直さや、真面目さがまったく理解できない。そんなものなくても何も変わりはない。そういう人々の前では謙虚さや正直さや真面目さは何一つ、働かないことになります。
これからの時代において、謙虚さや真面目さはどのような意味があるのだろう。もう役割を終えてしまったのだろうか。いいえ、これからも謙虚さ、慎ましさや真面目さ、これらは大切であり、この日本にしかりと保持し続ける必要があります。これらを決して失わせてはいけません。謙虚さをはじめ、さまざまな心の特質は新しい地球において必要なものであり、今の社会において評価される必要はないのです。今の社会から無視され、否定され、役に立たないと思われても、これからの新しい地球の社会では必要なエネルギーであり、一人でも多くの人が見つける必要があるのです。
そのためにも今のうちから謙虚さや真面目さ、いろんなものをしっかりと心に身につけ、具現化していく必要があるのです。今の人間関係の中で養われ、身についたとしても、本当に必要なのはこれからの新しい時代において謙虚さや真面目さや正直さが残っていること。これが本当に重要であり、今ではなく、これからの長い日本の歴史の中で常に必要とされているものです。
自分自身の心の中に謙虚さがどの程度、養われているか。
謙虚さは完全なる人格を身につけようという心の過程の中で育まれ、育っていきます。したがって一人ひとりが今の人格を素直に認め、今の人格を高めていき、完全なる人格へとつくり変えていく。これがどうしても必要であり、その過程において謙虚さが重要な働きをするのです。
皆さん方の日本で通用していた謙虚さは次第に弱くなってきており、新しい時代における謙虚さへと移り変わっていくでしょう。これまでの日本に定着していた謙虚さは相手を思いやり、自分よりも相手を優先し、世のため、人のためにできる心。自分という人格にこだわらず、むしろ相手の人格を伸ばしていく。このような、自分を差し置いて、人のため世のためになることを謙虚な心でやっていくのです。
この日本の謙虚さが少しずつ失われていき、いずれはまったく質の異なる謙虚さが動き出していくでしょう。日本に根付いていた謙虚さではなく、世界で通用する謙虚さ、宇宙で通用する謙虚さへと引き上げていくです。
これまでの日本の謙虚さは自分のみを守るため、自分のうちを守るため、自分の土地を守るため。何かを守ろうとして謙虚を装っていました。これからは地球の生命あるものすべてに対し謙虚であること、生命あるものすべてを謙虚に扱い、すべての大いなる神の力を感じ、神の力に謙虚にしている。こういったことが必要とされていきます。宇宙で通用する謙虚さを養うためには、さまざまな生命形態の生命を感じ、それらに謙虚であることが必要でしょう。
自分自身の日常生活の中で謙虚さがどのように使われ、広がり、効果を上げているのか。日本の人々の心からは素晴らしい波動が常に出されており、相手を思う心、社会を思う心が動いております。この心を忘れずに、常にほかの人のことを、ほかの土地のことを考えている。自分中心ではなく、ほかの人中心に進めていく。
こうやって自分自身の謙虚なる心の波動が引き上がっていきます。完全なる人格は何なのか。自分にとって完全とは何なのか。それを自分で見つけ出し、ぜひ自分なりの謙虚さを身につけるようにもっていってください。
今、謙虚さについてのお話がありました。自分にとっての不完全な人格と完全な人格、これを感じたときに謙虚さが現れ、完全なる人格に導こうとして動き出していきます。自分の心の中に謙虚さがあるかどうか、どこまで謙虚であるのか。それを見つけるのは自分の人格をしっかりと理解し、不完全なる自分、完全なる自分を見つけていき、そしてできるだけ完全なる人格を手に入れようとする。それが謙虚な心の方向性になります。
自分にとっての完全なる自分と不完全な自分。それを少し考えてみてください。それでは少し、休憩をとります。ありがとうございました。
②どの人格を通しても得られる真理は同じ
私はお釈迦様の弟子としてお話をいたします。お釈迦様のいわれていたお話に、人が真実を求めるとき、自らの心を正して正直に生きていきながら、真実を手にするのか。自らの心を穢れさせ光とは異なる世界で学びながら真実を手にするのか。どちらも同じ真理を手にしているか。本来、真理は一つ、同じものであるならば、どの道を通っても同じ真理を手にできるものなのか。そういうお話がありました。
光あるものは光の道で光を学んでいき、この世の仕組みを知り、天なる計画を知ることができます。光を知らないものは光のない道で、そこでその世界を知り、その世界の仕組みを理解し、真理を手にすることができます。光の道を歩むものは光の世界を創る真理を手にし、光でない道を歩むものは光でない世界の真理を手にすることができます。
光の世界の真理と光でない世界の真理は同じものかどうか。真理そのものは一つであるのか。真理そのものは一つということができるでしょう。光の世界の真理と光でない世界の真理は同じ真理が働いている。ただ光の働きがそこに入っているかどうか。光の世界で身につけた真理は光としての働きや特性を理解して、真理を理解していきます。光でない道を歩んだものは光を知らずに真理を手にしております。
光を理解して真理を手にしたものは光がすべてであり、光でない世界を知ることはできません。光でない道を歩み真理を手にしたものは、光を知らないために光の世界の真理を知ることはできません。お互いにただ一つの真理を手にしながら、自分の知った世界以外の真理は理解できない状態になっております。
本当の真理とは、光と光でない両方の道を歩んだものなのだろうか。両方の道を歩むと、基本は同じであったということに気がついてきます。光の道も、光でない道も、まったく同じ真理であることに気がつき、光の道だけを知っても、光でない道だけを知っても、すべてを知ることができます。しかし両方を体験して初めて分かるものに、はじめから一つしかない真理を知るために、一つの道で得られる真理がすべての真理と同じであったとしても、ほかの道を歩んでみて初めて同じであるということに気がつきます。
皆さん方の一人ひとりの人生がそうなっております。どの人格を通って完全なる人格に辿り着いても、一人ひとりに与えられた人格は一人ひとり異なっており、まったく同じ人格というものはありません。一人ひとり自分だけの人格が与えられ、自分だけの完全に向けての道が与えられております。
自分だけの道であるために、自分が完全なる人格に向けて手にした自分だけの真理、これは自分だけの真理として当てはまるでしょうが、これがまたすべての人間に対して同じ真理だということがいえるのです。しかし自分だけが、自分だけの不完全な人格からスタートして完全なる人格に向けて手にしたものは自分にしか当てはまらないとつい思ってしまい、他の人の人格を手に入れようとしたり、他の人が身につけた真理を手に入れようとして完全なるものを手にしようと思ってしまいます。しかしほかの人の人格を学び、ほかの人の手にした真理を自分が手にしても、結局、自分が手にした真理と同じであるということに気がついてきます。
自分が自分の人格に挑戦し、自分が完全なる人格にもっていったとき、そこで得られたものは、どの人格を通って完全なる人格になったとしても、得られる真理は同じものなのです。これが本当に分かったとき、自分は自分の人格を完全に持っていくことにだけ意識を向け、そこに励んでいく。ほかの人はほかの人に与えられた人格をしっかっり理解して、それを完全なるものへと高めていく。ほかの人はほかの人に任せ、自分は自分のところだけをしっかりと高めていく。
こういう気持ちがしっかりと出来上がったとき、自分は自分の人格だけを高めていくこと。自分の人格を完全なるものへと引き上げていくことが自分の役割であり、ほかの人の人格に介入する必要はなく、ほかの人の得られた真理を奪い取る必要もありません。すべては自分の世界。自分が完璧に行なえばそれで全体が完璧になるのです。
自分の不完全な人格をしっかりと認め、そしてそれを謙虚な心で完全な人格へと高めていく。自分の人格がさらなる不完全に変化してしまうのは、他人との比較であり、競争心であり、他の者を奪い取る心。それによって不完全な人格がさらなる不完全な人格へと形を変えていきます。
不完全な人格そのものをしっかりと認め、それ以上、不完全にさせないように意識を向け、ただひたすら完全なるものへと高めていく。それだけを理解しておいてください。
Aさんのアドバイスとして、謙虚さを学ぼうとするとき、自分自身の今の不完全から完全に向かう道筋の中で、自分がどの程度のレベルに達しているか。それを見ていくと、自分の認識している不完全という自分への判断にはまだ始まりの段階のところで意識が留まっており、これを完全なるものへ高めていこう、完全なるものへ向かっていこうという力がまだそれほど動いておりません。これを高めていくために、自分の不完全なところから完全なものへと向かう方向性が現実的にどこにあるのか。それを見極めることが必要でしょう。あなたにとって完全な人格は人間的なものではなく、教えられるものでもなく、見せてあげることもできません。ただそこにあるシンボルとして、あなた自身が考えている神のような存在、天子やマスターのような存在。すべてを受容し、すべてを受け入れ、常に微笑をもって眺めている。しかしそこには隠れた強い熱い愛が備わっており、確実に生命を救い、生命を本来の方向へ導いていく。こういう強い愛が備わっている存在のことをいいます。自分のあるべき方向性をそこに向けたとき、今、一番必要なる謙虚な心は自分を導いてくれる人、自分を高めてくれる人、そういう人に対する敬意。感謝や恩。こういったことがあなたに対して必要な謙虚な心になります。自分をあるべき方向へ導いてくれる。そういう存在なり、そういう持ち主。そういった人を、あるいはそういったエネルギー的なものを感じ、そこに常に謙虚なる心を向けておいてください。
Bさんの謙虚なる心を見ていくと、あなたの心から認識される不完全な人格と完全なる人格。あなたにとっての完全なる人格の方向性は、ある意味ではハイヤーセルフ的な感覚や、自分を創り出した神のような存在として認識されてくるでしょう。すでに必要な学びをすべて完了し、人間的なエゴがなく、すべての人間をしっかりと見届けながら、感情的に動くことがなく、さらなる進化のために導いていく。そういう存在があなたにとって完全なる人格といえます。そこに向かうためにあなた自身は日常の生活において、常にあなたの生活空間、あなたの世界の全体を高いところから見守り、高いところからしっかりと観て日常生活のすべてを観ている。こういう存在を感ずることが必要です。自分のすべてをただ見ている。何一つもらすことなく、自分の行動のすべてを見ている。これがあなたにとっての神のような存在であり、その日常の見ている中で、必要なことがすべて行なわれており、不要なことは何一つなく、すべてが必要なこととして現れてくる。そういう現実を創り出している。すべてをうまく創り出し、現象化させているもの。それがあなたにとっての完全なる人格に相当し、自分はそこに向かっているという強い気持ちが必要です。ただ単に神に見られている、神に守られている意識ではなく、いずれ自分はそこに向かう、あるいは自分の向かうべき目標がそこにある。それを強く感じ、本当に自分からそこに上がっていこうという心。これがあなたにとっての謙虚な心になり、自分が今、そこに向かって、何が学びとして与えられているのか。日常の中で体験すべきことがすべてそこにつながっていること。それを感じて感じていってください。
Cさん、あなたにとって不完全な人格と完全な人格のはざまの中で、あなたは完全なる人格の方向性をある程度とらえており、ある意味では方向性は間違っておりません。そこに向かう自分自身の今の状況がなかなかうまくできないことに自分で少し気になったり、自分の価値をうまく認められなくなったりしております。あなたが方向としては認識していても、あまりにも距離が遠いと感ずる心、これはある意味では謙虚な心であり、十分にそれは身についているといえるでしょう。ただあまり遠くに設定しすぎると、そこに向かう力が弱くなってしまい、なかなか引き上げることが難しくなってしまいます。したがって遠くにあるように見えても、実際には自分の毎日の修練でいくらでも近付くことができる。早く近くまで到達することができる。そういう気持ちももっておいてください。はじめから遠いと思わず、実際には場が良いときや条件が良いとき、環境が良いときはすぐ近くまできている感覚を手にしたりすることができます。したがって遠いと思わず、自分の状態によっては多くの人に謙虚な心で接することができる。周りの世界すべてを謙虚な心で受け入れることができる。そういう状況がいくらでも感じられてくるでしょう。ぜひそういう心でさらなる謙虚を身につけるようにしてみてください。
Dさんの不完全なる人格と完全なる人格のはざまの中で、あなたは完全なる人格への導きの中で、すでに何度か近くまで感じたり、あるいは距離感を感じたりしております。この距離感を感じ、近くに感じたり、あるいは遠くに感じたり、その時々の心によってかなり揺れ動いており、自分の距離感が安定して保たれていない感じになっております。いろんなその時々の環境や状況に左右されてしまい、自分の安定した位置がうまくとれない状態にあります。自分自身のいろんな価値観をしっかりと自分の心や魂と共に感ずるようにする。いろんなその時々のエネルギーや周囲の状況に惑わされず、常に自分の心で自分の魂で感じ取り、これを基準にしていく。そうすれば常に安定した距離感を保ち、安定して完全なる自分の人格へと近付くことができます。自分自身を常に自分の心や魂に従い、安定させ、さまざまな介入に動かされないようにする。そのようにして自分の位置を安定させるようにしておいてください。
今日は謙虚さを通して皆さん方の心の在り方を学んできました。日常生活においても、何に対して謙虚であるかを常に考えていき、自分自身の完全なる人格へと進むことを忘れないようにしておいてください。それではここまでにいたします。ありがとうございました。