2013/11/25 宇宙交流会
神聖なる生き方とは
①世俗な世界の中で神聖な意識をつくるのは困難
私は光のハイアラーキーのマスターの仲間で、神聖さを司るメンバーの一人として活動を行なっております。人間が意識を高めていき人間的な暮らしから光ある世界へ入ろうとする時に、それぞれのオーラに神聖なるシンボルが付けられていきます。それぞれのオーラに付けられた神聖さのシンボルは人によって違いがありますが、基本はその時に一人ひとりがすでにどのレベルの神聖さを身に付けているか、また一人ひとりを導く聖なる存在たちがどのような仕組みで神聖なる世界と繋がりをつくっていくか、そのようなものが聖なるシンボルとしてオーラに刻まれていきます。
このシンボルが刻まれるとそれに応じて聖なる仲間たちが一人ひとりを高き聖なるレベルへ引き上げるために、いろんな人間関係や仕組みがつくられていきます。聖なる流れに入るものは必ずその時点で身に付けている世俗的な波動を手放すことを現実化させていきます。
特に一人ひとりが身に付けているプライドや優越感、自分だけが正しいとする独善的な意識、人よりも自分を高く見せよう、人よりも良く見てもらおうとする顕示欲、これらの欲的な波動をいかに手放すか、その学びの現実が仕組まれていきます。
しかしほとんどの人はそれが手放すべき世俗のエネルギーの現実だとは気が付かず、単純に他人に対し嫉妬心を覚えたり、場合によっては競争心で他人を蹴落とす、少しでも自分が高きところに行けば自慢をする、そのような醜い波動の中にどっぷりとつかっていきます。
特にスピリチュアルな学びをはじめている人はスピリチュアルな世界における優越感やプライドが強くなり、スピリチュアルなレベルで自慢をする、他人を下に見て蹴落としていく、自分が上であるからといって下のものを自由に見下して優越感を持続させようとする、こういうスピリチュアルな学びをしている人がたくさんおります。
実際にはそういう現実を通しながら自分の心の醜さを自分で見つけ、いかに自分の心が汚れているか、いかに自分が世俗の心で汚され神聖さに程遠いか、それを自分で気づく学びの中にあるのです。自分で自分の汚れた心を見抜き自分で必死になってこれらの欲を手放し、謙虚に、正直に正しく生きようとするものは少しずつ世俗のエネルギーを手放していき、神聖さの流れに入ることになります。
通常の日本人の場合は聖なる印が付けられて、世俗のエネルギーを手放すのに早い人で三十年、四十年かかったりしています。しかし多くの場合は聖なる印が付けられても、一生のうちでそれに気づくことなくただ世俗のままでスピリチュアルな学びを続けていきます。
これまでは聖なる印が付けられたままで人生を終えてしまった場合は、さらなる次の学びの過程においてそれがつくられていき、早い段階で世俗から聖なる流れへ切り替えることができるような学びがつくられたりします。それでもほとんどの場合気づくことはとても難しく、やはり世俗のエネルギーの中で巻き込まれていきます。
はじめからそのように聖なる印を抱えていて、早めに聖なる流れに入るチャンスが与えられているものは、スピリチュアルな世界にはじめから興味を持ちながらも世俗の中に巻き込まれていき、なかなかすぐには世俗から抜け出ることができず、黙っていると次々と世俗の荒波の中に巻き込まれてしまうという人生を送ることがかなりあります。
世俗の生き方をやめたい、世俗を克服して聖なる流れに入りたいと心から望んでいるものがそれほど多くはありません。口では世俗の生き方をやめて光の中に入ります、私は神にすべてを預けます、私は神と一つです、このような言葉を出す人がかなり多く存在しますが、ほとんどの人の心は世俗のエネルギーで充満しており、他人との比較競争をやめることがなく、他人の動きや他人のことに関心ばかり向いて、自分自身を高めるというところに意識を向けている人がほとんどおりません。
聖なる生き方は他人のことにほとんど興味を持つことはなく、他人は他人の生き方をしているのをただ尊重しておく、一人ひとりの生き方を尊重し、少しでも早く目を覚まして、新たなる光の中に入るように気持ちをしっかりと持っておく。しかしまず自分自身が世俗の意識から抜け出ていって、いかに聖なる流れに入っていくか。仮に他の人を見る場合でも比較競争の世俗の意識で見るのではなく、一人ひとりが聖なる鏡として自分を見せている、一人ひとりが自分に見せているのはすべて自分の聖なる鏡であり、自分で気づけないところを他の人が鏡で見せてくれている、それに対し敬意を表し、敬い、常に他人を見て感謝の心が沸き起こってくる。
自分はいろんな面から見せてくれる一人ひとりの姿に常に感謝が自然と起こり、この仕組みを与えてくれた大いなる光の存在たちに常に敬意を表し、喜びを感じ、肉体を持った喜びを心から受け入れている、これが聖なる生き方のはじまりになります。一人ひとりの中に素晴らしい神聖さを見つけ出し、聖なる神を感じ、自分が聖なるものに囲まれている喜びを見つけていく。
聖なる生き方は普通の人間から見るとかなり難しい生き方になるでしょう。しかし一度人間世界から完全に抜け出て、世俗的な関心を持たず、自分を高めることに意識を向けたものは、聖なる流れの中に招かれていき、聖なる存在たちが常に導いているのを感じ、聖なる方向へと歩み続けていきます。
今日ここの場において多くの人がなかなか話を交わすことができず、心の中でいろんな葛藤や疑問や不安、また自分自身の心をいろいろと感じておりました。なぜ心が複雑になり言葉が出てこなくなるのか、何か自分がこの場にはふさわしくない、何か自分はここと違うという思いがまず存在し、少しでもこの場に合わせようとする、なるべく皆に合わせた話をして心を通わせたいと思う。
しかしそれがなかなかうまく進まずに、共通の話題もつくることができずに何を話しても切れてしまい先に続かない、これはまず一人ひとりの心の根源がどうしても自分と他人という分離感から行なわれており、他人は他人、自分は自分という意識でこの場に存在しているからです。
この自分は自分、他人は他人という意識が世俗のはじまりになります。自分と他人、この分離感によって他人を感ずることもできず、自分を表現することもできなくなっていきます。自分と他人を分離しているものが何であるか、一人ひとり分離する壁の質が異なっているために、実際には一人ひとりが違うエネルギーで分離感を感じておりました。
もし同じエネルギーで分離感を感じていたのであれば、またそれはそれで一つの共通の世俗の話題に入ることが可能になったでしょう。自分と他人を分離している波動が何なのか、これをまず追求する必要があります。この分離感があると分離感をなくそうとする意識が自然に向いていき、それで他人に合わせた言動をとる、他の人に合わせた言動で同じエネルギーで共通をつくろうとする、これが世俗の話題に入っていきます。
どのような話題を選んできても結局は分離感をなくそうとして何らかのテーマをつくり、それに応じたエネルギーで共通にもっていこうとするのです。日常的にこのような発想が身に付いていると、常に世俗の世界から抜け出ることができず、何を話題にしてもこのエネルギーが強く頭を充満させることになります。
神聖なる波動で充満させるためには、まず一人ひとりを分離させている分離感、他人と自分を分離しているこの分離の壁を取り除く必要があります。自分という意識が強ければ強いほどこの分離のエネルギーが強くなり、他人、自分の境目が大きくなっていきます。
自分を他人から分離させているものが何であるのか。自分と他人の分離がだんだん弱くなっていき、他人をまるで自分のように見ることができる、自分と他人の区別がないようにして見ていくことができる、このように分離感がなくなってくると少しずつ聖なる話題をすることも可能になっていきます。
しかしただ、では仲の良い人間同士で過ごせば神聖なる波動がやってくるのか、もちろんそういうわけではありません。表向きは仲が良いように見えてもほんのちょっとの言葉で急に期限が悪くなったり、急に怒り出したり嫌な気持ちになるのは世俗のエネルギーで充満しているからです。
一見仲良く境界がないように見えても実際にはさまざまなレベルの壁をつくっており、少しでも自分に違和感があるエネルギーがくると急にむかつき、イラ立ってしまいます。これも典型的な世俗の生き方であり、何を言われても自分は動じない意識が必要になります。
神聖なる波動の流れに入るためにはまずこのような分離感をなくしながら、他人を自分の一部と考えたり、あるいは自分も他人も同じとして一体感を感じたり、あるいは鏡として自分を常に見るように認識していったり、いろんな方法がありますが、基本的には分離を感ずるのではなく、同じ光の仲間として感じていく、同じ聖なる仲間として認識していく、そのような意識が必要となります。
聖なる流れに入ると一人ひとりの神聖さが感じられるようになっていきます。自分の持つ神聖さとは異なる神聖さをそれぞれが身に付けている、それぞれが身に付けている神聖さを感ずることにより、ぜひ自分もその素晴らしい神聖さを感じたい、あるいは自分をもっと素晴らしい聖なるものへと高めていきたい、自分を高めることに意識が向き、自分よりも高い聖なるものを感ずるととても敬意を表したくなり、その素晴らしい神聖さの中に自分も一緒に加わりたいという思いが沸き起こったりします。
一人ひとりの神聖さを感じていくと、常により神聖なものに興味が湧き、神聖さが素晴らしいものが見つかるとぜひその恩恵を受けようと思う、そういう感覚が身に付いてくるのです。神聖さは世俗の中ではなかなか見つけることができず、神聖さを世俗の世界に落としてしまうとせっかくの神聖さが世俗のエネルギーで汚されてしまい、素晴らしい神聖さを持っていた人に嫉妬を感ずる、あるいは神聖さを保持している人にいじわるをしたり、邪魔をしたりして自分が優位に立とうとする。
このようにせっかく神聖さに繋がっていたとしても世俗のエネルギーで汚されてしまえば、結局は世俗の意識レベルに落とされてしまいます。神聖さを身に付け、聖なる流れに入ったものは常に聖なる意識を保持することが必要であり、常に高めることが要求されるのです。世俗の中に入るとどんどん意識が下がっていき、せっかく高めた世俗の意識レベルがどんどん低いものへと落ちていきます。
一度世俗のエネルギーに落ちてしまうと世俗のエネルギーを取り除くのがとても難しいために、すぐには聖なる状態に戻ることができなくなります。したがって聖なる流れに入り神聖さを身に付けたものは、そのレベルから絶対に下がらない、絶対落ちないという強い気持ちが必要になります。
聖なる流れに入るとまず世俗の話題に興味を持たないようにする、世俗の人間たちとかかわり合わないようにする、世俗の話に乗らないようにする、こういう意識が必要であり、それを良い人間だと思われようとしてわざと世俗の人間たちの仲間に入り世俗の話をしていく、皆と同じような気持ちになり、まるで仲間になった感覚で喜びを感じていく、これは世俗の喜びであり聖なる喜びとは全く異なります。
またこの瞬間に聖なる意識が世俗に落ちてしまい、また聖なる意識に戻ることがとても難しくなってしまいます。汚された聖なるエネルギー、これをまた洗い清め高めていくためにはかなりの強い意志が必要であり、また自分を高める努力が要求されるのです。
普通の世俗の人間たちと共に一緒に学んで聖なる流れに入ることは極めて難しいといえるでしょう。世俗の意識を持たないものたち同士が集まり、そこで聖なる意識を高めていくのはそれは難しくはありません。特に自分よりも聖なるものがそこに入ると常に高い聖なるものへと興味があり、意識が向き、自分も高めようとする思いが強くなっていくのです。
したがって自分が聖なる流れに入るためには必ず自分よりも聖なる人間を見つけ、常にその人間と繋がって自分も高まっていくという意識が必要となります。単に皆と同じ仲間意識で楽しく過ごしたいという世俗の意識を大事にしたいのであれば、聖なる流れに入ることは諦めた方が良いでしょう。
世俗の中で聖なる意識を高めることはほとんど困難であるということを先に理解しておいてください。自分の意識を高め聖なる流れに入るためには、本当に強い心で世俗の意識から抜け出し、聖なるものに少しでも意識を向け高めていき、自分自身をしっかりと強く鍛えていく、こういう意識でやっと聖なる流れへと入ることができるのです。
現在の日本におけるスピリチュアルなトレーニングで、世俗の世界から意識を抜け出して聖なる流れに入るためのトレーニングをしているところは、あまり見ることができません。特にニューエイジと呼ばれる一つの遊び的なスピリチュアルな学びはほとんど世俗の世界に入っており、聖なる意識をもたらし聖なる流れに入る学びはほとんど行なわれておりません。
このような誤ったニューエイジの学びをしている人は、ただ口で私は神聖である、私は神であるという表現をとっているだけで、自分があたかも神聖なる存在であるかのように錯覚を起こしております。これこそが聖なるものを世俗に引き落とす一番の張本人であり、すべての神聖なるものが次々と世俗の世界に引き落とされてしまいました。
決してニューエイジ的な意識に負けることがないように自分の意識をしっかりと高めていき、惑わされることなく、本来の聖なる流れの中に入っていくことを望んでおります。
②他人をだますと自分をだます
私は観音として現れてきました。この場において観音という波動が皆さんにどのように貢献するか分かりませんが、私の感ずることをお話していきます。人間は自分を認識する時、他人との比較で自分を見つけていきます。他人からどう思われ他人からどのように評価されるか、それで自分を見つけていきます。
他人から言われる言葉が真実であれば他人から評価されたことも真実になるでしょう。他人が自分に対して言ってきた言葉が真実でなければ、その言葉は真実ではなく、自分を認識する時も真実を理解することができなくなります。常に他人との比較において自分をとらえるために、基本的に他人との比較によって自分をつくるという意識がはじめから備わってきます。
しかしいろいろ成長し、心を豊かにし、ある段階がきた時に自分はいくら真実を話し正直であっても他人にだまされ、利用され、必ずしも他人は正直には接してこない、自分がいくら正しく言っても他人はうそをついてくる、どうせこのような社会なら自分もうそをついても同じだ、このような意識がつくられていきます。
皆がうそをついているから自分もうそをついても良い、こういう意識になった時から神から離れていきます。神から離れた時から神のいない生き方を続けることになり、お互いにうそを言い合い、お互いに足を引っ張り、醜い競争社会で少しでも自分が優越感を得ようとする生き方をはじめていきます。
このような意識レベルに落ちた人は原点に戻ることが必要であり、神から離れた自分を神にまず戻すこと、神との繋がりをまず戻していく、そのためには神と繋がっていた頃を思い出すのです。うそをつかずに真面目に正直に生きていた、正しいことを正しいと言い、悪いことは悪いと言い、本当の生き方をしていた。
誰でも小さい頃はそのような生き方をしていました。それは神と繋がっていた時になります。その時と同じ意識に戻り、神との繋がりを戻した時、聖なる生き方がはじまっていきます。まず自分自身にうそをついていた、自分をだましていた、できもしないのに私はできると表現したり、うそばかり言っているのに私は正直だと言ってみたり、真面目にやると言っておきながらまったく何もしないで放っておく、まず自分をだましていました。
自分をだましていた分、人からだまされるという現実がやってきます。まず他人にだまされたくなければ自分はだまさないことです。自分に正直に自分に正しく生きる、正直に正直に生きていくと自分の中の神の部分が戻ってきて、神に繋がり、神聖さを取り戻していくでしょう。自分の日常生活でもう自分にうそをつかない、もちろん他人にもうそをつかない、正直に真面目に生きて真実だけを口から出す、これがまず最初の目標になります。
自分の人生の中でうそをつくきっかけは何なのか、なぜうそをつくのか。常にうそをついてだまそうとする気持ちそのものが問題であり、なぜうそをつこうとするのか、自分を徹底的に調べ、自分を見ていき、本来の自分を聖なる自分へと取り戻していってください。
Aさんが自分についているうそは、あなたは小さい時から自分自身を大切に思い、自分ができるだけ傷つけられない生き方を見つけようとしました。傷つくことにとても不安や恐怖を感じているために、傷つかない生き方をとしようと考えておりました。そのために知らず知らず傷つかない生き方を目指していき、自分が傷つかないと思うようにする、あるいは傷つかないようなふりをして自分を強く見せようとする、傷ついた自分を何事もなかったかのようにして自分をだましていく、こうやって自分自身をだまし自分が傷ついていないようにつくり上げてきました。表向きは傷ついていないという自分を演じながら、心の中には数多くの傷が身に付いています。自分の抱えている傷を一つひとつ見ていき、いかに自分がこの傷を隠そうとしていたか、自分自身をもだまし隠そうとしていたか、それを見つけていき、もっと自由に楽になれる生き方をしっかりと見るようにしていってください。
Bさんが自分についているうそは、あなたは本来高い意識レベルを保持し、少しでも多くの人の上の意識レベルで自分を保持しようと考えております。なるべく自分を高い意識レベルにもっていき、高き高きレベルから人々を見ていこうとする。しかしそういう意識は本来人には良くないことであり、自分にとって言動としては良くない言動になってしまう、そういう意識があるために高い意識レベルを目指しながらも、それを自分で分からないようにして自分は皆と同じ意識レベルにいよう、皆と同じレベルで目立たないように、普通であるようにしておこう、このように意識が働いていきます。したがって日常の中ではなるべく目立たないように、普通であるかのように自分を言い聞かせながらも、本来は自分は高い意識レベルで自分を保っておこうと感じております。自分自身を正直にもっていくためには、なぜ自分が高い意識レベルを保持しようとするか、それは本来あなた自身が高い意識レベルの世界からやってきたためであり、自分の高い意識レベルをこの地球の人間の意識レベルに落としたくはない、汚されたくはないという意識から自分の高い意識を保持しようとしているのです。しかし現実にいろんな人間関係の中ではそれを実行させることは難しいために、多くの人間の中で目立たないように分からないようにして意識レベルを同じ程度であるようにもっていこうとする働きがつくられていきます。これからは自分自身は本来高い意識レベルであったとしても、自分の目の前にいる人間は今の自分の意識レベルに合った人間が来ていること、自分と同じ意識レベルのものが周りにいるために、同じ話題で同じ世界で話し合えるようにする、常にそこをしっかりと受け入れ自分自身をそこから高いレベルへと引き上げるように意志をもっていってください。
Cさんの自分についているうそは、あなたは高き高き波動を求め、純粋なる世界で生きようと感じております。少しでも本来の純粋なる世界で暮らそうとする、これを感じていながらも多くの人と話をする時には、それはおかしく思われてしまうために、なるべくそれを感じとられないようにして当たり障りのない言葉で話をし、なるべく自分の世界が汚されないように、自分が感じている素晴らしい世界をそのままにして皆とは表面的に言葉を合わせていく、こういう生き方が身に付いております。基本的に接する人すべてに合わせようとして自分をだましていき、それが自分自身であるという風に感じていきます。自分が抱いている思いは単なる理想であり、現実は皆と波動を合わせようとする、これが自分についているうそであり、本来はあなた自身の感じている高い世界が真実であり、皆に合わせている生き方がうその生き方になります。自分自身の感じている素晴らしい世界をこの周りの人々の世界でどう現していくか、周りの人に合わせるということは世俗の生き方に落としてしまうことであり、自分を聖なる存在から世俗に落とす生き方になってしまいます。自分の感じている素晴らしい世界をこの世界に降ろすことを常に感じてください。自分の感じている素晴らしい世界をこの世界で現実化させようとする、そのためにはどのように表現し、どううまく言葉を出し、この世界に現していくか、このような意識で言葉を出していけばうそをつかずに、この世俗の世界を聖なる世界へと変えることができます。
Dさんが自分についているうそは、あなたは日常の流れの中で常に自分に何か不安や恐れ、いろんなことに対して過敏に反応して自分はまだできないとか、分からないとか、自分自身をいろんな意味で制限をつくり上げていきます。本来はあなたは自由な世界を理解しており、そこではいろんなものが自由に動き生存し、自由な活動を行なっている世界です。あなたはそういう世界を心のところで感じていながら現実を見た時、まったくそれと違う現実に意識が向き、自分が何かおかしい、この世界ではうまくやっていけない、この世界に合わせるためには皆にいろいろ合わせないといけない、このようにして自分をだましてきました。皆に合わせること、皆と同じようにできること、それがあなたにとっての普通の生き方になり、それぞれが自由に表現している世界やそれぞれが本来の言葉だけを話している世界が、まるで夢のような感じで意識の遠くに追いやられております。自分にうそをつかずに正しい生き方をするためにはあなたが本来感じているそれぞれが自由に表現している、それぞれが本当のことだけを話して皆が明るく楽しく過ごしている、これをこの世界に持ってくる必要があります。自分がどのように思われようとも正しく話していく、正しいことを表現していく、本当の心が感じていることを表現していく、こうやって他人に合わせた話ではなく、自分の心から出る言葉を発していくのです。これにより自分をだましていた波動がどんどん崩れていき、あなたの感じている世界が現実の中で現れるようになっていきます。
Eさんが自分についているうそは、あなたは自分自身を何か特別な感性や能力を持っていて、他の人間よりは自分の方が少し理解している、自分が何か得意なものを手にしているという意識が身に付いております。これはあなた自身が確かに持っている能力の一つでもありますが、それを正確に自分でも理解し、自分で説明し、表現することができないために、肝心なところをごまかしていき、単なる現象だけをとって自分が何か優れた人間であるかのような感覚だけを手にしていきます。こうやって自分への特別な意識が身に付き、それがいつの間にか普通になってしまい、自分で自分をだます意識がつくられていきました。自分に起こっている多くの現象や自分自身の感覚をもっと細かく丁寧に確実に理解していき、それをしっかりとコントロールできるように意識を持っていく必要があります。その肝心なところを自分でも分からないまま現象だけをとって、その世界をつくり上げていくと自分の真実にいつまで経っても向き合うことができず、だました自分の世界だけが常に現象化されていきます。自分をだましている状態でしか人と接することができず、いろんな人と接しても基本的には自分をだました状態でしか他人を見ることができなくなってしまいます。まず自分に起きていること、自分のことをしっかりと解明していき見つけだし、自分のすべてを正直に感ずることにより、自分についているうその部分が少しずつ消えていき、本来の自分の生き方ができるようになります。自分自身の本来のところにしっかりと目を向けていってください。
Fさんが自分についているうそは、あなたの周りのいろんな人々に常にあなたが意識を向け、そういう人々と自分とのかかわりを常に気にしております。自分の一つひとつの言動が他人にどう思われ、どのように意識されていくか、そのために他人といろいろ会話をする場合でもなるべく自分がおかしく思われないように返事をしていく、当たり障りのない普通の範囲内で言葉を出し、ある一定レベルの話はしないようにする、このような意識が身に付いております。これはあなた自身が自分を知ろうとする旅の中で、いろんな人を理解しながら自分を理解していくという流れがつくられていき、他の多くの人から話される正しい言葉をあなたが理解して自分を知る流れがありました。しかしいろんな人から結果的にだまされたり、うそをつかれたりして自分を理解することができなくなり、もうそれ以上自分を理解するという作業を進めなくなってしまいました。今となってはただ自分と他人とのかかわりの中で、これ以上自分が傷つかない生き方をすることだけを考えております。自分にうそをつかず正直に生きるためには、自分が感じていることを正しく表現することからはじまります。自分が感じていることを正しく表現していくと他人もあなたに正しく表現するようになり、あなたに対して本当のことを言うようになっていきます。自分がどの人間に対しても正直に素直に話していくだけで多くの人が正直に話すようになり、そして自分は自分の正直なことを耳にするようになります。自分で自分の姿を正直にとらえられることができるようになっていきます。ぜひ自分の言動から変えるようにもっていってください。
Gさんが自分についているうそは、あなたは意識の奥底で天の世界に繋がり、天と共にあり、天の一員であることを実感しております。天が常に自分の中にあり、多くの人が天の世界から感じられている、こういう感覚を身に付け自分も天の一員として人生を送ってきました。しかしこういう意識でいろんな人々と接しても多くの人の口から出る言葉に天の言葉が感じられず、天の思いとはまったく異なることが常に感じており、それによって自分が感じている天の世界を口にしても多くの人に受け入れられない、多くの人からはおかしく思われるという意識ができ上がってきました。そのために天に関する思いを自分で封印していき、もうそういう言葉を出さないようにする、自分は天のメンバーであるということを口に出さないようにして、なるべく他の人からおかしく思われないようにする、こういう意識がつくられてきました。もうそれが身に付いてしまうと自分は何もできない普通の人間という意識になってしまい、天に繋がる時にわざわざ皆と同じようなやり方で天に繋がろうとするやり方をするようになってしまいました。本来はそのまま天に繋がっていたのがすっかり自分で忘れてしまい、あるいは自分をだましてしまい、天に繋がるためにわざわざ汚れた人間の教えを使いながら天に戻ろうとしている最中になります。あなたが天に戻るためには汚れた人間の知識を使うのではなく、自分が本来身に付けている天の一員であるという意識に戻る必要があります。自分で自分をだまし普通の人間と同じようにした部分を取り戻していき、本来の自分は天に繋がっていた時、その状態に戻り、そしてうそをつかず正直に真面目に人間と接することが必要になります。常に自分が天と共にいるという意識に繋がった時は、常に天の言葉を口に出し、天の優しさを表現し、天と共にいる喜びを感ずるようになるでしょう。それを思い出して天のメンバーとして早く活動をしていってください。
今日は神聖さと世俗についてのテーマでお話をしました。元々何度もこのテーマでお話をしておりますが、基本的には何度話しても今の人間にはなかなか理解できない内容になるでしょう。皆さん方も遠慮することなく何度もでも良いですから、常に神聖さと世俗については意識を向け、考え、話ができるようにしておいてください。それではここまでにいたします、ありがとうございました。