/謙譲の心と卑下する心/相手の何を敬うのか/明治以降変わった/第四密度と敬語/
2019/7/8 宇宙交流会 |
このメッセージのいいねポイントは |
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心の素晴らしさに対して敬っていた |
①身分が上の人に対する尊敬語は光がない
光のハイアラーキとしてお話をします。日本人の心の在り方についての話がなされておりました。日本人がもっていた謙虚さ、謙譲の心、こういう相手を敬うために自分を少し卑下する、自分を下に見ることによって相手を高めているようにする、こういう日本人がもっていた独特の相手を思う心、これが、今、かなり変わりつつあります。
もともと相手に対する良い心、相手を敬う心や、自分をあまり大きく見せたり、特別な自分として見せることなく、謙虚さをもって相手の方を良く見せようとする心、こういう心の在り方は武家制度の時代や、まだ宗教的な意識が強かったころには十分に通用することができました。
いわゆる宗教的な心とかなり密接に結びついており、心と聖なるもの、神聖さ、心の在り方がそのまま神聖なるものと繋がりがある、心を正すことにより、あるいは心をよい心にすることによって聖なる存在とのつながりがよくなる、こういう心に対する美徳の意識が強いときは、心を良く見せるために、相手の心を正しく見て、自分の心は謙虚に、自分にふさわしい心のままで過ごす。そういう心の在り方によって聖なるもの、高き者からは自分の心の状態を正しく見てもらえる。こういう宗教的な意識が強い時には、謙譲の心もそれなりに通用していた時期がありました。
やはり日本においては明治以降、軍国主義の政治形態に変わっていき、軍が力をもち始めたり、国が国民をコントロールする流れに入っていったとき、心の在り方がかなり大きく変わっていきました。
宗教的な心ではなく、いわゆる愛国心、国を第一に考える、聖なるものよりも国を大事にする。このころから謙譲の心がかなり変わっていきました。
聖なるものに対しての敬う心ではなく、自分よりも位が上の人に対する敬いの心、自分よりも階級が上の人に対する敬いの心、そういう敬いの心に変わっていき、心の素晴らしさや、心が放つ光に応じて敬う心ではなくなっていきました。
それによって謙譲の心が大きく変わっていき、聖なるもの、光あるものに対する敬いの心ではなく、単に身分が上、階級が上、そういう位に応じての敬いの心に変わっていき、宗教的な心との結びつきがなくなっていきました。
そのころから、敬う心と道徳観は別なものになっていきます。たんに自分の上司や階級が上の人に対して敬う。心が素晴らしいという意味で敬うのではなく、単純に自分よりも上の階級の人に対して敬う。もちろんの初期のころには、そこに大きな矛盾を感じる人もたくさんおりました。
自分よりも階級が上でありながら、心の状態がまったく低い。そんなに洗練された心ではない。磨かれた心ではない。弱い心。あまり褒めることができない野暮な心。そういったような心の在り方の者たちも現れてきて、階級が上であるにもかかわらず、心が追いついていない。心がそれに見合っていない。
そういう矛盾が起こるようになっていき、自分自身がただ形式的に上の人に対して敬う。形式的にただ尊敬を表現する。そうやって本来の敬いの心がなくなっていき、ただ階級や身分、それだけの心の状態に変わっていきました。
今もそのエネルギーは続いており、相手が素晴らしい聖なる心、悟った心、十分に上品で洗練された心。そういう心に対して敬うという意識はほとんどなくなっており、単純に偉い、有名である、実績がある、そういう人に対する敬いの心に変わっております。
この本来の素晴らしい心に対しての敬いではなく、単純に階級的なものや身分的なもの、そういったものに対する敬いの心は、本来の正しい光にはいっさい繋がっていないために、人間世界だけで作られた意識、人間世界だけで通用するドラマになっていきます。
つまりそこには本来の天の光はいっさい入っていない、聖なる光はいっさいそこに介入することなく、ただ人間だけが勝手にドラマを進めている。そういう状態になっています。したがって、今の日本人の人々の中で相手を敬ったり、自分を謙譲してへりくだった表現をしたとしても、それは本来の心の状態を見て尊敬したり、自分がへりくだっているわけではなく、単なる身分的なもの、単なる能力の違い、単なる階級の違い、そういったところから起こる敬いや、謙譲の心になっています。
そこには本来の光、神からくる光や宇宙からくる光とはまったく無縁なものであるために、皆さん方自身はまったく何の影響も受けることはありません。ただ人間が作ったドラマであり、人間が作った感情的なエネルギー、人間が作ったカルマ、それだけで人間関係、社会関係が続いていきます。
したがってそういう比較、あるいは上に見たり下に見たりすることによって起こるさまざまなドラマ、単純に人間が作ったエネルギーであり、人間が作ったドラマであり、自分がそこに入ることによってまたドラマを作り出し、ドラマを延々と続けていく。ただそれだけのことになります。
宇宙的に見て何の意味もありません。本来は聖なるものにつながる光に応じた敬いの心、まだ自分が本来に光につながっていない、自分がへりくだって表現する謙譲の心。本来はあくまでも光のオーダーに関して言うことができる表現形態が始まりになっていました。
しかし今は本来の光を見ることができず、感ずることもできず、物質的な階級だけで人間を差別しております。したがって人間世界だけに起こるドラマであり、聖なる光、天の世界から見た場合には何一つ影響は与えておりません。
皆さん方がこれをどのように克服していくか。人間世界の一つの流儀、人間世界の仕組みと割り切って、階級が上の人にはそれなりの丁寧語を使い、階級が下の人であっても、お互いの人間としての認識の範囲内の丁寧語でやり取りする。そういう単純に階級を表す一つの役職や身分ととらえておけば、大きな問題を作ることはないでしょう。そこにかなりこだわったり、それを強要する人がいた場合は、その人自身の意識の問題になるために、あまりそこに意識を合わせる必要はありません。
そういう人に意識を合わせると、自分の意識もそのレベルに下がってしまい、戻ることが困難になってしまいます。したがって自分自身はあまり人間的な世界に介入することなく、本来の楽な自然な生き方を追求していく。ただそれでもその人の心が本当に素晴らしい。はるかに自分よりも、天に近い。素晴らしい心であると感じた人には、それなりの素晴らしい心に対する敬意は表現しても何も問題はありません。
この宇宙にはさまざまな進化した星が存在しておりますが、一般に今の皆さん方の地球のような星々が、次のレベル、第四密度の普通の星々の世界に入っていくとき、やはりこのマナーのようなもの、流儀や日常の行動の在り方、意識の扱い方、そこがやはり大きな問題になっていきます。
第三密度で養われた身分や比較、時に自慢するとか上でありたいというこの意識は、第四密度の世界に入ってもすぐになくなることができず、かなり長い間、もち越すことになります。そして無意識の内で自分と他人を比較してしまったり、相手が自分よりも遥かに高いと劣等感を感じたり、いろんなことが第四密度の最初の段階でも起こっていきます。
皆さん方は早め早めにその意識を克服していき、今のうちに第四密度の世界に意識を合わせていき、第三密度の世界で作り上げた比較・競争、無意味な謙譲の心、ただ相手をひたすら高めようとするお世辞、こういったものを克服していき、通常の人間関係、本当に高い意識レベルの人には敬意を表する意識、そういったものを養っていき、第四密度の世界に入ってもすぐに第四密度の人同士でうまく人間関係が進められるように、意識を向けていってください。
それではアドバイスをしていきます。
※個人アドバイスは省略します。